北太平洋で感じる何か

気温8℃、暖房用ストーブ点火

遠く船種不明のマスト灯

船に寄ってくるミズナギドリ

八宝菜、大根の煮物の夕食

衣類を雨のように濡らす冷たく重い濃霧

牛丼の昼食・・寒いので肉は長持ち

もっと買って置けばよかったと妻

残り740海里、2枚目の海図に替える

パラムシル島南210海里

読書・・・井上靖「おろしや国酔夢譚」

鱒ムニエル、ポテトサラダ・・・オーブン料理

深夜の乗客、ウミツバメ・・・油の切れた滑車のようにキーキー鳴く

もう少し休んでいけば・・直ぐ飛び立ちマスト灯の周りを群舞

あまったポテトサラダのホッカホカのオーブン焼き

大きなうねりに乗り、低気圧に吸い込まれる・・・快走

SW風35m、ビーブーツー(漂流)・・・これでゆっくり眠れる

突然VHF(無線機)に日本語のコール

「日本のヨット、誰か居るのか?」「中で寝てます!」

窓から外を見ると、薄暗い海上に 漁船が大波に見え隠れしている

「気い付けていきなよ!」「ありがとう!!」

低気圧の中心、992mb・・・大荒れの海、妻声なし

上天気図  1~2週間に一回はこんな感じ

食事は乾物をなめ、かじる、のみこむ、後はりんご

嵐去り、炊きたてご飯に野菜炒め、ツナとたらこサラダ

だんだん寒さに慣れてきた

過ぎ去った低気圧を追いかけ、快走、激しいローリング

揺れる船内で体を支え損ない右手親指に激痛

骨は折れてないみたい、亜脱臼・・・妻には内緒

清水タンクが空・・・激しい動揺にパイプ外れる

気圧下がりだす、後ろから台風崩れの低気圧が追ってくる

肉じゃが、とろろ、金平牛蒡

厚焼き玉子の夢を見たと言ったら、昼食に出た

台風崩れは東に去った

しばらく近くにいて、慣れっこになった「僕らの低気圧」も離れつつあり

新しい友達・・・舳先に小型のイルカたち伴走

見えるはずの島が見えない不安

1992年6月24日 陽の光

快晴、4日ぶりに太陽をみる

船内より 外が暖かい

釣った鱒を焼き、ご飯を炊き暖かい朝食

昼食は釧路のSさんから頂いたビーフシチューとマリネ

夕食は「内海さん一家」みたいに痲婆豆腐

荒れた海から開放され素晴らしい三食

「ヨット世界旅―清水の内海ファミリー航海記」の中で

献立「麻婆豆腐」を食べるシーンが印象的

内海夫妻は日本ヨット界の大先輩だ

1992年6月22日 嵐

昼過ぎから風強まる

縮帆(3ポイント)、NE15mの風、波高4メートル

夜になり気温10℃、NE24mの風、ヒーブーツー(漂流状態に)

針路、風向、波高を勘案し消極的だが、これが安全である

暗黒の海に、怪しく光る無数の波頭、北の夜光虫・・・

江戸時代の漂流者「大黒屋光太夫」もこれを見ただろう

1992年6月20日 釧路港から出国

午前中に、出国審査、税関、入管、海上保安庁、各職員来船し現地でお世話にたった人たちに見送られ、12時30分離岸

巡視船「宗谷」のブリッジに「UW」旗が揚がり「航海のの安全を」というメッセージだ、汽笛で送られた。・・・子犬たち、さよなら。

海上は刺し網が多く気が抜けない。妻は早くも船酔い気味。

最初の目的地は、1283海里(約2310キロメートル)先のアリューシャン列島の「アッツ島」だ。この航海のベストシーズンより、1ヶ月遅れとなってしまった。

初日のワッチ(見張り)は寒く眠い。いよいよ北洋と緊張するも、風もなく霧もなく、少々気が抜ける。

ワッチオフ、暖かい寝袋の中で行きつけの居酒屋、四谷荒木町「桃太郎」の夢をみる

陽気な客のN氏、流しの「マレンコフ」、不機嫌な主人、多くの女性客・・・・

野良犬の親子

あまりの子犬のかわいさに

「連れて行きたい・・」と言う

それは無理だ

見ていると

港で働いている人たちから

えさを貰っているみたい

6月20日の出発の日までの切ない日々だった

濃霧の中から・・・ 1992年6月15日


襟裳岬沖南東46海里、霧の中から漁船現る

「寶輝丸」鮭の刺し網漁の道具を満載

「どこ行くんだ!」「釧路です!」

「こっちだぞー!」と北東を指差す

「これ、持ってケ!」と鮭児2本投げてくれた

「母ちゃんに一本、あんたに一本・・・」

「有難うございまぁーす!!」

霧の中に消えていった

オットセイを沢山見る

小笠原海溝 1992年6月11日

写真上  霜婦岩

写真上  角度を変えて

「霜婦岩」誰が命名したのか?・・・寂し過ぎる名前

鳥島と小笠原列島の間にポツンと立っている高さ100メートルの岩だ

トローリングにバラクーダ級の「さわら」ヒット

ズケにして「島寿司」

軽く炙って「さわら茶漬」

この真下は「小笠原海溝・9850メーター」

想像もできない深さ

パコのこと

パコは、ガーフィールドのようないわゆるオレンジキャットである。立川のアメリカ村に住んでいる時、あんまり可愛いので日本人と結婚した米軍の兵隊さんから譲ってもらったのだ。

裏の家で生まれたのだが、パコが来てからその兄弟、姉妹も家に居ついてしまった。日本式に言えば茶トラの3兄弟で、パコが中ぐらいの大きさで、他は名前も大ちゃんと小ちゃんになり、後から生まれた妹はキジトラでお腹が白く、雰囲気がミニクーパーみたいだったので、クーパーという名になった。

クーパーも性格が良く皆に可愛がられたが、パコの可愛さは抜群だった。おっとりしていて物怖じしない、だけど気が強いのだ。自分を猫だと思っていないで人間だと思っているようだった。だから猫とは付き合わない、猫嫌いで側に来させない。でも、人間は大好き。人見知りなど全然しない。

乗り物にも強く、車でもバイクでもヨットでも泰然自若。私には恋人のような存在で、私が悲しい時には慰めるように側に来てくれた。でも浮気者で、ちゃっかりよその家でも「タイガー」と呼ばれ可愛がられていたりした。我が家は猫が多すぎて、家出をしたことがあったのだ。1匹で可愛がられたかったようで、それ以後彼だけ個室になった。

(撮影  山口悟史)

パコにはファンが多く、専属のカメラマンまでいた。山口さんはプロカメラマンだが、猫の写真は趣味で野良猫などを撮っていた。それで時々来てはパコを中心に沢山の写真を撮り、白黒で現像しては持ってきてくれた。

当時のアメリカ村は、猫を飼うには最高の場所で、広い芝生にボロ屋だが、隣近所はほとんど空き家で、自由に放し飼いが出来た。しかし、その頃は猫エイズのワクチンはまだなく、パコも7歳で死んでしまった。

パコは旅が出来る猫で、本当に一緒にヨットで行きたかった。

当時、散骨の仕事をするとは夢にも思わず、海を旅するからパコを散骨にしたのだが、骨を細かくするという情報もなかった。どんな形でもいいから残したいとも思った。剥製でも三味線でもいいから側に置いておきたかった。

散骨

泣きながら散骨した

紺碧の暖かい海だった

キャップテンは

遺骨の一片を食べた

そして今、私たちの仕事は「風」と言う

海洋自然葬(散骨)の会社をやっている