ベーリング海の楽園・・・4

J.ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」という興味深い本がある

なぜ、ヨーロッパ勢力が次々と植民地を獲得し世界を変貌させてしまったのか?というのがテーマのひとつである

 

ダッチハーバー滞在中、一人のアレウト人がオンディーヌを訪ねてきた。

写真上  「私の名はボリスです・・・」ロシア風の名前?

日本人にも居そうな面構えだ

お土産を持参していた。

写真上  干して少しスモークした鮭、適宜むしって食べろという

アレウト人はとても気前の良い民族と聞いたことがある

18世紀それが災いし、ロシア人入植者、狩人、毛皮商人等に食い物にされ、二万五千人ほど居た人口が千三百人代にまで減ったことが有ったという

前出の本の題名を思い起こしてほしい

「銃・病原菌・鉄」さらに「強欲」にも押し潰された

 

名前もロシア風に、宗教もロシア正教をおしつけられた

考古学者のS.ハリソン著 小説「母なる大地・父なる空」三部作六冊を読む

紀元前7千年頃のアレウトの生活、文化、愛憎などを活写している

厳しい自然のなか独自の文化を築き、此の地に存在感を示していたのが分かる

 

ダッチハーバーを見下ろす丘に登ってみた

樹木は無く草原・ブッシュの丘が連なっている

写真上  山頂にはトーチカの跡、太平洋戦争当時のもの

写真上  高射砲の基礎部分

写真上  ダッチハーバーと魚介の加工工場が眼下に広がる

視界は良いが風は冷たい

 

1942年日本海軍の艦載機が二度にわたり空爆したという

写真上  隣の島Akutan Islandにエンジントラブルで不時着した零戦を調べる米兵・・・湿原に不時着した零戦は前にめりに裏返り、パイロットはその時死亡した

その零戦はシアトルに運ばれ、米軍が解体・研究しその弱点を突き、以後の戦闘を有利にしたと、町の歴史館に写真が展示してあった

 

マウンテンバイクで次の丘へ向かった



写真上  第一次世界大戦当時、六歳で亡くなっている

女の子だ、幼児死亡率が高かった時代の僻地での死である

ロシア風の名前、アレウト人なのかは分からない

ベーリング海の楽園・・・3

ヨットで旅する人たちを「ヨッティー」と云う

ダッチハーバーは、この海域のヨッティーの重要な避難港だ

極東から米西海岸を目指すには、帆船時代から

アリューシャン列島をかすめる、このルートがメジャーであった

ヨットも帆船である、帆船時代から積み重ねられた知識を利用している

気象、海象、海流、季節風、地誌等は数百年変わらない

此処ダッチハーバーは、潮気の多いヨッティーのたまり場でもある

ノルウエイのヨット「KIWI」

LONE&DAGのカップル、LONEは妊娠中

頑丈な鉄の船で、大工であるDAGが自作した

世界一周中で、私たちと同じルートで米本土を目指す

「僕らはバイキングだから、北の海は平気さ・・・」と

LONEは日本料理に興味があり妻からレシピを教わっていた

アメリカ人、ヨット「KATAPOLL」

PAT UTLEYさん

今は単独航だが、この先コディアーク島で日本人の妻と娘と合流予定

東京で英語教室を経営し資金を蓄えヨットを買い帰国するという

早く家族と会いたいと、少し寂しそう

リタイアしたノースウエストの元パイロット

ヨット「SHINGEBTSSⅡ」

MAXINE&LARRY夫妻

今までパイロットとして上空から見た、素晴らしい海をすべて航海したいと意欲的、船室内でも操船できるヨットで、モデルハウスみたいに生活感無く綺麗に生活していて、私たちヨットは散らかし放題で恥ずかしい

我々は、近海やこれからの航路の情報交換や、艤装の工夫、生き方や哲学・・・・英語で大変だけれども楽しい時間を共有した

ベーリング海の楽園・・・2

「スーパーで見かけた日本人は君たちだったんだ・・・」と

現地で働くジャパニーズテクニッシャン「小山です」と訪問者あり

日水の現地法人「ユニシー」品質管理をしていると・・・

写真上  小山さん(左)と日水幹部社員の伊東さん(中央)

出入りの漁師から海図を借りてくれ、事務所のコピー機を貸してくれた

私は新任の日本人職員を装い、ドキドキしながら大量のコピーを取った

自宅の洗濯機、乾燥機、シャワーではなく湯に浸かれる風呂も貸してくれた、皮膚がピリピリして気持ちよかった

そして沢山の食材の差し入れ、蟹、紅鮭、イクラ、うに、赤魚、日本からの漬物等々みんな最高に旨かった

写真上  日水新入社員細川君

細川君は「あと3週間もこんな所に居るなんて・・・」とホームシックの塊になっていて、妻に励まされていた。

写真上  日水シッピング所長「ヒバリノさん」

「君の無線の英語は酷いナ・・・もっと勉強しなくちゃ・・・」と

励ましとも注意とも、「すいません・・・」と私

精力的な仕事ぶりに米人ワーカーも頭が上がらないようすだ

漁船、貨物船の出入りを常にチェックしているようで

彼の胸ポケットのVHF(船舶用近距離無線)は常にスイッチON

海上、陸上のスタッフ、税関等々途切れることなく指示を出していた

私の入港時の港長とのやり取りも聞かれてしまったようだ

 

皆さんのおかげで、トラブルも疲労も吹き飛びました

本当に感謝しています。

ベーリング海の楽園・・・1

ダッチハーバーでの課題は山ほどある

ここからコーディアーク島までの詳細海図が不足していた

船具屋では半分ほどしか手にはいらなかった。

写真上  キスカ島沖の嵐で吹き飛んだアンカーウエルハッチ

マスト灯の接触不良

錨巻上げ器(ウインドラス)のスイッチ防水

ウインドベーン(自動操舵)調整

スロットルレバーのピン調整

スライドハッチ防水

プロパンガスの補給とアメリカ仕様への変更

コンパスライト配線交換

アクリル窓のひび割れ補強

ほかに細かな修理がリストアップされている

ヨットの航海日誌は、船の修繕の記録でもある

少し価格は高いがほとんどの修理部品は手に入る

ここはあまりに孤立し、自立しなければ生き残れない環境なのだ

ここに住むすべての人たちの合言葉は「インディペンデント」だ

ダッチハーバー到着 1992年7月13日

キスカ島沖の嵐のあとは霧や雨、曇りの天候だった

海は大して荒れなかった

入港前にパイロットボートを通じ港長にVHF

港口の給油桟橋で通関手続き

検疫、入管は担当者不在

「週末の休みが長引いているんじゃない・・・?」と税関職員

今日は月曜日だ

インナーハーバーへの移動許可はもらう

写真上 手前の岩礁に白頭鷲、ロシア正教会との間の水路を右奥へ

小型の漁船が溜まっている

赤い鉄の船体、ノルウエイのヨット「KIWI」に横抱き

「明日、15時ホテルにて入管職員と会うように」と無線連絡

「もう、上陸してもいいよ・・・」いたって鷹揚

写真上 インナーハーバーとても安全な船溜まりだ

西部劇の町の様

プレハブの建物、コンテナーも店舗や事務所にしている

泥道を汚れたトラックや4駆が走り

汚い作業着の労働者たち

マリファナの匂いまでしてくる

パイオニアマーケットなるスーパーへ

大きなステーキ、野菜、果物、菓子など買い込む

85ドル、「東京なみの物価ね・・・」と妻

写真上 ウナラスカの町、繁華街?は反対側

久々に買い物をする喜びを感じる

夕食は大きなテンダーロインステーキ、赤ワイン

生野菜たっぷりサラダ、新鮮なオレンジ・・・食べすぎ!!!

安全な港に舫を取り、緊張から開放され少しハイになっている私

泥だらけになって良く働くアメリカ人の姿が印象的な一日だった

ベーリング海の洗礼・・・7月8日から9日の嵐

Nizkils島にビルのようなレーダーあり・・・大自然の中に違和感

気温6℃の船内でキャベツとソーセジの濃厚なスープ,皿からの蒸気

南700海里に低気圧あり、針路が心配

00時海上漆黒の闇

2時方向6,5海里に島影、レーダーに映る、激はげしいピッチング

Buldir島沖、ENEの風20メートル 艇速5,7ノット

深夜の縮帆作業3ポイント、ストームジブ(荒天用前帆)

これ以上吹いたら、メインセールをおろそう

あまりに島が近く、風向も悪くヒーブーツー(漂流)はできない

デッキを波が洗い、スライドハッチ(入り口)から若干の浸水

異音がして錨鎖のハッチが吹き飛ぶ

収納していたロープを室内へ取り込む・・・びしょ濡れ

妻はギブアップ・・・?ベットの中で手足を突っ張っている

15時Kiska島正横、こんなに荒れても視界はない

大揺れのオンディーヌを楽しむようにイルカ伴走

18時Rat島は後方へ視界悪く見えなかった

風少し落ちE16メートル・・・依然波悪し

潮のせいか島に寄せられているよう・・・気分めげる

01時、疲れ果て、少し広い海域で風下に島なくヒーブーツーへ

04時急に風落っ、霧、デッキ上の混乱整理、ゴムボート流失していた

波なく、うねりのみ、海鳥多し

霧の中Sugarlaf Peakが見え直ぐ消えた(写真下)

妻、何事もなかったようにアッツ島の花の押し花を造っている

12時西経に入る

ワインとキャビアで乾杯・・・塩辛く酷い味のキャビア、半熟卵を混ぜごまかす

18時10分平らな海面をすべるようにランニング(追い風帆走)

今回の荒天は突然発生する局地的低気圧の中心だった様

暖かいシャワーを浴びる・・・生き返る

20年前に読んだ本、東良三「アラスカ 最後のフロンティア」よみだす。ロシア人のアリュート人(現地人)への扱い、いたく、気分悪るし

夕食、ホタテのベーコン巻き、コールスロー、たけのこご飯

嵐が過ぎればこんなものさ!

1992年7月7日 ベーリング海へ

午前7時19分、ロランステーションまえ

国際信号旗「UWー1」掲揚(協力を感謝するのサイン)

VHF21チャンネルで司令官へ礼を述べる

「Good Luck TO You!!」と司令官

早朝に釣ったタラを解体し冷蔵庫へ

冷たい重い濃霧が山から下り海面を覆う

写真上 霧の中へ 右手の海図 足元にフォグフォーン

 

北東の風11メートル、艇速6,5ノット

午前9時、ベーリング海へ入る・・・未知の海域だ

多数の海鳥、セグロカモメ、ハシボソミズナギドリ、ウトウ、ひときはユーモラスな下手くそな飛び方のエトピリカ(パフィン)

パフィンは海中では潜水泳法の名手なそな

アッツ島を振り返る

写真上 一瞬、稜線が見えたが直ぐ霧の中へ

 

4日間の滞在中、霧と雲でその全容を一度も見せてくれなかった

英霊に黙祷

数十のイルカ伴走

Sherys島に巨大な黒い建造物、ロシアを睨む戦略核監視レーダーだ

写真上  ICBM監視レーダーといっていた

遠く近く鯨の潮吹

ワッチオフ、気温4℃、寒い、寝袋へ入っても寒い

いよいよ、ベーリング海だ