アメリカ村の猫たち 1 クーパーの死

8月15日にサンドポイントに戻り、東京に電話をするとクーパーが死んでしまったという。

クーパーはうちの雌猫では一番好きな猫だった。パコの妹で、いつの間にか我が家に居ついてしまったのだが、最初の頃、泥棒猫のように腰を低く、そっと入ってくる様子が、車高が低く可愛いミニクーパーのようだったのでクーパーという名になった。

居ついてからは、誰にでも馴れ、人懐こく甘える、それなのに自立していてベタベタしない可愛い性格で、他の猫とも仲良くやれるおっとりした猫だった。ねずみや鳥、もぐら、虫などを捕まえるのもうまく、生活力があるので、船長はお嫁さんにしたいくらいだと可愛がっていた。

写真上  クーパーの昼寝・・・アメリカ村の木陰  (撮影 山口悟史)

本当に欠点のない性格で、側にいるだけで癒され、優しい気持ちにしてくれる。

アメリカ村という理想的な環境で、自由に草むらで遊んだり、鳥を狙ってみたり、気ままな生活ではあったが、家の中だけで飼われている猫に比べれば寿命が短くクーパーも8歳足らずだったと思う。

それでも環境が許せば、動物はペットといえども特に猫は自由に外で遊べれば幸せだと思う。

グリが行った場所

ダッチハーバーを出て半年後、私たちはバンクバーでグリと会い、再びアラスカに戻ることになる。そして2人と1匹の旅は始まる。

動物達の楽園グレッシャーベイ(氷河国立公園)、州都ジュノー、金鉱の町ホワイトホース、魅力的な小島シトカ、国境ケチカン、町並みの美しいビクトリア、アメリカ入国シアトル、コロンビア河を上りオレゴン州ポートランド、金門橋のサンフランシスコ、ドライブでヨセミテ国立公園、2000年の巨木レッドウッド国立公園、間欠泉イエローストーン国立公園、マリナ・デル・レイはロサンゼルス、飛行機でグランドキャニオンとラスベガス、アメリカ最後のサンディエゴ。

メキシコへ入り鯨の子育て地バハカリフォルニア、コルテスの海ラ・パス、アカプルコから飛行機で首都メキシコシティ、中米ニカラグア、爬虫類のコスタリカ、パナマ運河、紺碧のカリブ海の島々、ヘミングウェイのキーウエスト、雷のフロリダ、軍港ノーフォーク、自由の女神ニューヨーク、汽車の旅でボストン、カナダのハリファックス、赤毛のアンのプリンスエドワード島、そして日本では立川アメリカ村、新宿区四谷、湯河原の温泉、カーフェリーで北海道。

いつもいつも付き合ってくれて有難う。猫は家に居つくと言うけれどど、グリは私たちといるのが好きだった。グリはすぐに移動できるようにいつもハーネスを付けていて、リードをつけてお散歩するのが好きだった。

グリの死から始まる

先日、愛猫を亡くしたSさんから手紙を頂き、読んで二人で泣いた。その手紙は、許可を得て海洋自然葬の風「風の日誌」の方に掲載した。

グリは本当に健康な猫だったが、運動不足が祟り最大で10㎏にまでなった。私たちは太っているのがまた可愛いかったし、個性的でますます熊のようで好きだった。しかし、高齢になり、ついに糖尿病になってしまった。

グランドバンクス42(前オンディーヌ)のピアノの上で(写真上)

 

猫の糖尿病はやっかいだと聞いて、私たちは真っ青になった。インスリンの量の管理が大変なのだ。一時は駄目かと思う処まで行き、安楽死まで考えたが、通っていた獣医さんが良く、最初は1日1回のインスリンの注射、後半は朝、晩2回になったが、5年ぐらいは普通に生きられた。

体重も7㎏位まで減り、3ヶ月か4ヶ月に1回の通院で食欲もあり、時々ベランダに出たり元気だった。

でも、最後の一年には、年齢が15歳ということもあり、彼がいなくなったら、私たちはどうなってしまうだろうと心配だった。正にかすがいだったし、精神的な支えでもあったから。

生きているうちに、グリを中心に旅の本を書きたいと思いながら、叶わなかった。グリの死から一年経って、やっととりあえずブログという形で始め、書くことによって救われている部分が大きい。

この家でグリの誕生

グリの実家、フィンリーさん家族

ヴァンクーバーに住むフィンリーファミリーとは1991年6月に小笠原の父島で会った。彼らは家族5人ヨットで南太平洋を廻り、父島に来た。私たちが日本近海を廻っている間、東京湾のヨットハーバーの私たちの場所を提供したので、彼らは東京見物をし、秋葉原、デズニーランド等を楽しみ帰国した。

小学校の先生だったお母さん、ワイルドな実業家のお父さん、長男モーガン、長女のシンディ、末っ子ニコラスは小学生。そして泳ぐ猫「タイガー」が一緒だった。でも、残念なことに帰路その猫は、太平洋を泳いでいて消えてしまった。

写真上 グリのお母さん 右から2匹目がグリ

ヴァンクーバーでは、フィンリー氏に大変お世話になった。

パコが亡くなってしまってから、私たちはヨットの旅に猫を連れて行くのは諦めていた。それは適応できる猫が身近に居なかったこともあるが、狭い空間に閉じ込めることが可哀想だったからだ。

それがひょんなことからグリが乗るわけだが、それはまだ1年も先の話しになる。

グリは、6匹兄妹で、オスは2匹。シンディから、「どうしても1匹貰ってほしい、そうでないと保健所行き」と言われ、一番やんちゃなグレーの子猫を選んだ。

写真上  グリの来た日・・・お昼ねから目覚めて

名前はその場ですぐに決まった。

ミスター・カナディアン・グリズリーベアは、毛布をお母さん代わりにして、ヨットの暮らしに直ぐ馴れた。

パコのこと

パコは、ガーフィールドのようないわゆるオレンジキャットである。立川のアメリカ村に住んでいる時、あんまり可愛いので日本人と結婚した米軍の兵隊さんから譲ってもらったのだ。

裏の家で生まれたのだが、パコが来てからその兄弟、姉妹も家に居ついてしまった。日本式に言えば茶トラの3兄弟で、パコが中ぐらいの大きさで、他は名前も大ちゃんと小ちゃんになり、後から生まれた妹はキジトラでお腹が白く、雰囲気がミニクーパーみたいだったので、クーパーという名になった。

クーパーも性格が良く皆に可愛がられたが、パコの可愛さは抜群だった。おっとりしていて物怖じしない、だけど気が強いのだ。自分を猫だと思っていないで人間だと思っているようだった。だから猫とは付き合わない、猫嫌いで側に来させない。でも、人間は大好き。人見知りなど全然しない。

乗り物にも強く、車でもバイクでもヨットでも泰然自若。私には恋人のような存在で、私が悲しい時には慰めるように側に来てくれた。でも浮気者で、ちゃっかりよその家でも「タイガー」と呼ばれ可愛がられていたりした。我が家は猫が多すぎて、家出をしたことがあったのだ。1匹で可愛がられたかったようで、それ以後彼だけ個室になった。

(撮影  山口悟史)

パコにはファンが多く、専属のカメラマンまでいた。山口さんはプロカメラマンだが、猫の写真は趣味で野良猫などを撮っていた。それで時々来てはパコを中心に沢山の写真を撮り、白黒で現像しては持ってきてくれた。

当時のアメリカ村は、猫を飼うには最高の場所で、広い芝生にボロ屋だが、隣近所はほとんど空き家で、自由に放し飼いが出来た。しかし、その頃は猫エイズのワクチンはまだなく、パコも7歳で死んでしまった。

パコは旅が出来る猫で、本当に一緒にヨットで行きたかった。

当時、散骨の仕事をするとは夢にも思わず、海を旅するからパコを散骨にしたのだが、骨を細かくするという情報もなかった。どんな形でもいいから残したいとも思った。剥製でも三味線でもいいから側に置いておきたかった。

散骨

泣きながら散骨した

紺碧の暖かい海だった

キャップテンは

遺骨の一片を食べた

そして今、私たちの仕事は「風」と言う

海洋自然葬(散骨)の会社をやっている

最高の飼い猫

グリに出会う前、私たちは通算百匹を越える猫を飼った

立川のデザイン事務所では、多いときには40匹を越えることもあった

この猫の名前は「パコ」という

この子とヨットで旅をしたかった

出発直前に天国へ旅立ってしまった。

ついに始まりました。カナダ生まれのグレーの子猫と北アメリカ大陸を巡る旅です。

通称 「グリ」 1993年3月25日生まれ

本名  Mr.Canadian Grizzly Bear

性別 オス・雑種

性格 グリーズリーベアーの様(乱暴もの)

母猫 ヴァンクーバー在住の、シングルマザー

ヴァンクーバーの高級住宅地に住む旧知のヨットマンから貰う