心に残るヨットの映画 「冒険者たち」

寄り道して、ヨットの映画の話を。

ヨットと映画と言えば、何と言っても「太陽がいっぱい」でしょうが、一番ヨットマンに愛されている映画は「冒険者たち」ではないでしょうか。「レティシア」という名前のヨットもよく見ます。

レティシアというジョアンナ・シムカス扮する美しい女性は、現代アートに挫折し、アラン・ドロンの飛行機乗り、リノ・ヴァンチュラのレーサー、3人でヨットに乗って宝探しに行く話しで、実にロマンに溢れています。

この映画がヨットを始めたことには、かなり影響し、私たちも宝探しを本気で考えたこともあるくらいです。

その他に実話を元にした「ダブ」、「ロマンシング・ストーン」のラストシーン、ニューヨークだったか、高層ビルの谷間をヨットが通るシーンも忘れられません。

そして面白かったのは、「ライオンと呼ばれた男」清掃会社の社長だった男ジャン・ポール・ベルモンドがヨットでアフリカへ行く話しです。荒れた海で、彼がヨットのキッチンの前の床に座り、フライパンで食事をするシーンは、リアルで「そうだそうだ」とうなずけました。

もちろん「太平洋ひとりぼっち」も忘れてはいけないでしょう。

最後にヨットの映画ではなく、帆船もので「マスター・アンド・コンマダー」も好きな映画です。また、映画ではないのですが、BBC制作の「海の勇者 ホレィショー・ホーンブロア」は何度見ても心が躍る大好きなドラマです。

 

船長の一言

映画は、9割が詰まらなくても・・・ほんの少しでも私の心にリアルに、或いはロマンティックに記憶に残れば・・・一瞬でも共鳴できれば見る価値があり・・・私はそれで好い。

「ライオンと呼ばれた男」は、あのシーンだけで充分楽しめた。

旅をしていて、海辺の城砦や要塞の廃墟を見ると「冒険者たち」を思い出す・・・「ダブ」が自分のヨットに火を点けるシーンは、旅に疲れ挫折しそうな焦燥感を共感できる・・・

「太陽がいっぱい」の高級木造ヨットを見ると、あの船の価格やメンティナンスに掛かる費用を想像するだけで・・・そこは自分の住む世界とは違いすぎる絶望感に襲われ、殺人を犯す青年に共感する・・・貧乏なヨットマン(私自身)がここに居る・・・

そして「海の勇者 ホレィショー・ホーンブロア」数々の叢話の中で、士官登用口答試問のシーンは私自身を試されている様な迫力があった。

動力の無い時代、帆船を運用し、なおかつ戦闘をする知恵と、勇気にヨットマンなら誰でも魅せられるだろう・・・そして尊敬できる上官の下、数々の試練を乗り越えて成長していくホレィショーにエールをおくりたくなる・・・

本物の帆船が風を得て、疾駆するシーンは何度見ても飽きない・・・

グリとニューヨーク・・・ 1 なぜかニューヨーク

グリはまだ生まれていない。先が長いので、これから時々、グリとニューヨークの事を書きたい。89年の9月に初めてニューヨークに行ってから、すっかりニューヨークのとりこになっていた。

行くまでは、怖い所とか、摩天楼とかのイメージしか持っていなくて、あの100階以上あるビルの谷間に入ったらどんな感じだろうとしか思っていなかった。

しかし、行って見て、それは想像を超えた世界だった。まず、建物がゴージャスである。1つ1つのビルが個性的で美しい。新しい都会のただ高いだけの建築ではない。そして人の多さ。多いだけではなく、皆エネルギーに満ちている。それもアジアのゴミゴミした人の多さではなく、ビジネスとアートの融和した、スピーディーでスマートでクール(カッコいい)な集団である。

また、どこにで歩いて行けるマンハッタンの狭さ、オアシスとしてのセントラルパーク、何もかも最高のものが揃っている。勿論最低の物もあるが。

最初に訪れた時、帰国する前の日に一人の日本人に会った。友だちに紹介されたジュエリーデザイナーだ。新宿2丁目のゲイバーのマスターの紹介であるから、当然彼もゲイだった。私たちは、何も偏見を持っていない。

その彼T氏は会うなり、「ねぇ、あんた達、赤ちょうちんに行かない」と誘われた。私たちは、赤ちょうちん、と半信半疑で付いて行った。着いた所はダウンタウンにあるポーランドの移民が集う汚い安酒場だった。カウンターの前にビリヤードの台がある。カウンターの上には猫が寝そべっていた。カウンターの中には、中年で太目の愛想のよい女性がカクテルを作っていた。

その夜の出会いが、決定的に私たちをニューヨークに惹きつけた。Tとは古くからの知己のようにすっかり意気投合していた。

そんな理由で、ヨットでニューヨークに着いたら、しばらく住んでみたいと思うようになっていた。

そして、それは最終的にグリのために家を買おうと言うことになる。

写真上  ヨットから降りると世界は驚くことだらけ・・・!!

臆病者の航海

私は、前にも少し書いたが、かなり臆病である。高いところから落ちる乗り物やお化け屋敷、ホラーが駄目である。

子どもの頃潮干狩りに行き、潮が満ちて来たというのを聞いてあわてて、妹の手を引いて沖に向かって走って行ったことがある。沖にも家が見えて陸と勘違いしたのだ。方向音痴でもある。

ロッククライミングなんて絶対出来ない。それでも「一番易しい所だから、女の子でも大丈夫」と聞いて、北穂高岳の東稜について行った。新婚の頃で、船長の友だちも一緒だった。

上高地から涸沢までは何度か来ていたし、登山も嫌いではなかった。涸沢から北穂まで、途中の急な雪渓もなんとか我慢してついて行った。ついにゴジラの背中と言われる壁に来た。友人が先に行き、次が私。「ザイルを付けているから大丈夫だよ」と言われ、壁にしがみ付き、切り立った壁を蟹のように横へ、岩にお腹を付けて移動する。足下はやっと靴のつま先が半分乗る位の岩で、そこから下は何百メートルもストーンと落ちた崖だ。進むしかないのだと思いながら、必死に岩にしがみ付き進んだ。

真ん中まで来て、足が震えだした。怖くて堪らない。怖すぎて自分から手を離して落ちてしまいそうである。私はどうしようもなくなって

子供のように「ワァーワァー」泣いた。

しかし、泣いてもどうしようもない。自力で進むか戻るかしなければ、状況は改善できない。泣いたら少し落ち着き、前へ進んだ、真ん中にいたのだから、前進の方が良かった。

そこに来るまでの過程でもう充分怖いのを我慢していて、それ以上凄い所があるなど思ってもいなっかたのだ。

後で聞くと、そこを通らなくても後ろに普通の登山道があったという。彼らはロッククライミングを楽しむためにそこを通ったのだ。

その後も、北穂高に登り、奥穂高岳に登り、白馬岳に登った。しかし、決してロッククライミングはしない。

そして、海。未だに、ヨットがヒール(傾く)するのが怖い。強風も高波も怖い。暗闇も怖い。

それなのになぜ、ヨットで旅行するのか。臆病者のくせに好奇心が人一倍強いこともある。でも、一番の理由はやはり船長のロマンを共有したかったからだ。

出港前に本を読んだ。あらゆる漂流本。人はどうやって嵐の海から逃れ、漂流を生き延びるのだろう。何分息を止めていたら、水中から脱出できるのだろう。

最後は「アウト・オン・ア・リム」シャーリー・マックレーンの自伝だ。人は何度も生まれ変わる。その本の説得力に圧倒され、私は信じた。もう、怖くなかった、死ぬことも。

今、私は生まれ変わりに関しては分からないと思っている。

最初のアラスカの旅

今から38年前(1973年)、私たちは初めての海外旅行ということでアラスカへ行った。貧しい結婚生活をしながらも、若いうちになるべく早く一度は海外に出て見たいと思っていた。しかしその頃、海外旅行は貧しい若者にとっては夢だった。

ナホトカまで船で行き、シベリア横断鉄道でヨーロッパへ行こうかなどとも考えた。そんな中で当時は、飛行機でヨーロッパへ行く便は、ほとんどがアンカレッジ経由の北極回りで、アンカレッジまでの運賃が一番安かった。

写真上  ホーマーの外海とキナイ半島の山々

その頃は、まだロッククライミングをしていた船長ににとって、マッキンレイや憧れていたハンチントンを見られるということも魅力で、飛行機代をローン払いでアンカレッジに行くことにした。

旅費は分割の後払いでよかったが、カードなど無い時代で滞在費は現金を作らねばならず、私は着物を質屋に持って行き、10万円を作った。往復の飛行機代は、確か1人11万8千円位だったと思うが、お給料が5万円弱の頃だ。

私たちは当時の船長の親友Sも誘い、3人でアンカレッジへ向かった。現地に着いても1ドルが320円の頃で、ホテルに泊まるなどはとても無理で、私たちは安いレンタカーを借り、ジャガイモと玉ねぎ、ベーコンとパンそれに鍋とフライパンを買いキャンプをしながら、アラスカを周った。

野宿をしていて、狼の声に3人で慌てて車に入ったこともある。真っ直ぐな道がどこまでも続き、全然車に合わないこともあった。ルピナスの花が一面に咲く広大な自然、湖に降り立つ自家用水上飛行機、白夜のサンセットクルーズのヨット、何もかもが日本では考えられない豊かさでショックだった。

私たちは憧れのステーキを食べることも出来ず、一番安いハンバーガーやパンケーキを食べ、マッキンレイ国立公園や氷河を見て周った。6泊7日のドライブを追えて、車を返しに行くと走行距離オーバーで追加料金を払うはめになった。しかしお金も底をついていて、船長はニコンを売る決心をして、買ってくれそうなカメラ屋を探した。

カメラ屋では、直接買うのではなく、欲しがっている客に連絡を付けてくれるという。飛行機の時間もあるので、あせっていたが買い手はすぐに見つかり、思っていたより良い値段で売れ、何とか無事日本へ帰ることが出来た。

ホーマーは、その時初めて本物のヨットを見て、ショックを受けた場所である。

出発の準備

船長が40歳を過ぎた頃、いよいよ世界一周を実現させるべく、そのための船を探し始めた。新艇など到底無理であるから、30フィートクラスの中古艇を探していた。いろいろ見ているうちに、ヴァンクーバーから世界一周をして日本に来た家族が船を売りたがっているというニュースが入ってきた。小学生低学年の男の子と幼稚園くらいの男の子を連れたお医者さんの家族で、仕事の関係で子ども2人と旦那さんは先にカナダへ帰り、奥さんが一人船に残っていた。

私たちは、予算内で思いがけず38フィートの船を手に入れることが出来て、有頂天だった。彼女がカナダに帰った時、船には子ども達が大事にしていたという、ミスターブラウンベアとミスターホワイトベアの2匹のぬいぐるみが残されていた。それは今も船の中で私たちを見守っている。

船を手に入れてから、船の大改造をしたことは、前にも触れた。日本からアメリカへヨットで行った人は、堀江さんを始め大勢いるが、ほとんどは太平洋を直接西海岸に行っている。

私たちは、最初からアラスカ経由を考えていた。2ヶ月も陸を見ないで行くより、出来るだけ沢山寄って行きたいことと、気象・海象を考慮すると合理的なルートであること、最初の海外旅行の地アラスカには是非行きたかったからだ。

船長は、周到な計画を立てていた。そのために必要なものを買いに、2人でホンコン、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ニューヨーク、ボストン、ロンドン、パリと飛び回った。主に海図を手に入れるためだが、水路紙や航海のガイドブック、船の部品などを求めてだ。無寄港世界一周なら、ほとんど海図はいらない。しかし、港港を廻るには、膨大な数の海図が必要なのだ。船長は水路紙やガイドブックを英語の辞書を引きながら一生懸命勉強していた。おそらく海外を目指す「長距離航海者」としては、一航海が最も短いコースをたどる航海者だろう。

90年の11月末には、成田からダラス経由でニューヨークへ行き、12月2日にはロンドンへ行っている。そのロンドンへ行く飛行機で事件が起こった。突然人が亡くなったのである。勿論病死だが、飛行機は大西洋の真ん中で突然Uターンし、ニューヨークへ戻ってしまった。そこで亡くなった方を下ろし、再び飛び立ったのは、全てのフライトが終わってからの深夜だった。

次の日の朝、ロンドンに着き、ホテルに荷物を置くとすぐに目的の海図屋へ行き、夜は焼き栗を食べながらパブへ。翌日は船長はヨットショップ、私は念願のロンドン塔へ行った。1人で行くのは勇気がいったが、15,16世紀の歴史に興味を持っていた私は、どうしても行ってみたかったのだ。と言っても私はかなりの臆病者で、ホラーもお化け屋敷もジェットコースターも駄目である。実は船長もそうなのだが。でも、私は、絶対に霊や幽霊には出会わないと信じていて、ロンドン塔でも寒気さえしなかった。

ロンドンに3日、パリに3日だった。パリはボートショーが目的だった。さすが東京とは規模が違う。あらゆる物があり、特にいろいろなパーツがあるので、船長は大満足だった。そして屋台の生牡蠣、白ワインの美味しいこと。

写真上  私たちは、そこで目的だったアクリルのドームを手に入れた。それはキャビンのハッチに付ける物で、それを付けると船室に居ても外を360°見渡せるのだ。

最後の日、パリ郊外クリニャンクールの蚤の市に行った。12月のパリは美しく飾られたシャンゼリゼ通りと澄んだ空気、底冷えのする寒さだった。

私の独断的ヨット論

7月29日深夜から30日の朝にかけ

昼寝をしたせいか目が冴え、航海日誌に書きとめたものだ

 

第一のテーマ

7月28日朝アクタン島を出、24時間を越えるハードな時間

短い時間であったから何とかしのげたのだろうか?

長く、脱出不可能な状況ならどうなっていたのか?

 

24時間不屈の闘志をもち続けたのは確かだ

それ以上の長時間であれば、その時はめげずに戦えるのか?

ただ言えるのは「船を信頼性と、技量と太い肝玉・・・」だろう

信じられる船とシステムは

日本近海で磨いてきたつもりだから・・・またその時はその時だ

第二のテーマ

造水機、発電機、エンジン、オートパイロット、電子レンジ

気象用ファックス、レーダー、GPS、無線機等

壊れやすい文明の利器に頼り、助けられ旅をしているわけだが

今は、飲料水の心配も無く、気象情報は入手でき、荒れた海の調理は電子レンジで熱い湯で火傷の心配のなく、ハンドフリーで船は進む、位置情報も正確だ

 

もちろんこれらの機器が壊れると

修理費用やその為の時間を浪費するはめになる

 

さて、本題に入る

我々の航海の目的はストイックに探検を求めるものではない

これらの便利な機器に助けられ、

日々の生活に余裕や、潤いがある

清水を求めて川や滝へボートを出し重いポリタンクを運ぶことも無い

台所やシャワーでお湯をたっぷり使っても問題ない

天候も最悪の事態はさけられる・・・

 

そして今、アリューシャンの海域で

霧が晴れ、氷河をまとった「三人の魔女」を見つめている

ここにたどり着くには、

今までの日々の延長のような感覚で

自宅のベランダからそれらを見るように

・・・・それにはこれらの機器が必要だった

 

もちろん、すべてが壊れても原始的な方法で

本当の冒険的手法で切り抜ける自信や能力はあるつもりだ

最初からそのスタイルであれは

余りにも我々の求める旅とは違いすぎる

 

便利に暮らしながら、感動的な旅をしたい

力んでいたら、長くは続けていられないだろう

 

誰かに揶揄された「この船は海上の秋葉原(電気製品に囲まれている)・・・」に反論して・・・

 

それにしても、風とウネリが反対だ・・・・!

ヨットに積んだもの

私たちの38フィートの船は、もともと3LKの作りだったが、1部屋をつぶし、倉庫とトイレに直した。バウ(船首)が船長の部屋でその手前にトイレ兼シャワーがある。そしてリビング。船に入ってすぐ左がキッチン、その後ろが倉庫件トイレで、私の部屋は入って右手前奥である。半畳のスペースに座れる位の高さで、海が荒れた時は、ここで手足をつっぱり、ひたすら耐えるのだ。

ヨットは収納スペースが多く、ベッドやソファの下は勿論、壁もみな物入れになっている。どこに何を入れたか分からなくなるので、そのためのノートも作った。

私たちはある意味貪欲なので有りとあらゆる物を積んで行った。まず、すでに出てきたマウンテンバイク。これは後にニューヨークで盗まれてしまった。そしてクラシックな形の小船、これは上陸用で、アッツ島では、海岸付近で追い波をくらいひっくり返って、船長がびしょ濡れになり、後にヴァンクーバーの友人にプレゼントした。

写真上  ニューヨーク郊外のショップで見つけたプレート、妻からのプレゼント(プレートの文章、多分そのとうりでしょう・・・)

 

そして、登山用具にスキー、これは船長の夢でパタゴニアに行ったときのため。さらに着物一式に三味線。これは、道中お金に困ったら、大道芸人の如くお金を稼ごうと、出発の2ヶ月前に特訓してもらい、弾き語りを1曲覚えたのだ。そのときにタコ焼きも作って売ろうと家庭用のタコ焼き器も積んだ。しかし、幸いその芸を披露することなく進んだ。

他にユニークなのは、鯉のぼり。小笠原で会ったヨットのグループがトンガで鯉のぼりを上げたところ王様に宮殿に招待されたと聞いて、私たちもあやかろうと急遽調達したのだ。

船長は用心深く、ヨットのいろいろなパーツが壊れても直せるようにあらゆるパーツ、ねじや工具、替えのセールも積んでいた。

本は200冊以上あったろうか。読書三昧が私の夢だ。日本酒やワインはあっという間になくなったが、味噌、醤油、お米は半年分を積んだ。出発前のスーパーでの食料の買出しは圧巻である。缶詰やレトルト食品、小麦粉、生鮮食料品、山盛りのカートがいくつあっただろうか。

友だちにはお餞別として、電気の節約に緑色のロウソクを沢山貰い、

行く先々の発展途上国では、ラックスの石鹸が喜ばれると聞いてそれもアメ横で買った。

出発前に「オンディーヌ」は、購入した金額以上にお金を掛けて、かなり居心地良く改良していた。まず、海水から真水を造る造水器、トイレも電動式を追加し、ホールディングタンク(汚水タンク)をつけた。さらに清水タンクを大きくし、軽油のタンク、予備のポリタンクも6つ積んだ。発電機を新しくした。電子レンジとイワタニの冷凍庫も積んだ。太陽電池パネルと気象ファックス、GPSにレーダー。その頃は、携帯電話もPCもまだ一般的ではなかった。

プロパンのガスストーブがあり、アラスカでは助かったが、電気毛布も積んだ。エンジンをかけるとお湯が沸くので、それは本当に有難かった。圧力釜でご飯を炊き、オーブンでお菓子を作る。

ライフラフト(膨張式救命筏)や無線は勿論ある。

最後にパコそっくりのぬいぐるみと前の船のオーナーが置いていった2匹のミスターホワイトベアー、ミスターブラウンベアーと大事な飛ぶ猫の彫刻を乗せた。

写真上  彫刻家 浅井健作さんのブロンズ製

氏の写真集の撮影時、安く分けてもらった

猫に羽根があったら、これ以上の自由は無い・・・二人のお気に入りである

グリが行った場所

ダッチハーバーを出て半年後、私たちはバンクバーでグリと会い、再びアラスカに戻ることになる。そして2人と1匹の旅は始まる。

動物達の楽園グレッシャーベイ(氷河国立公園)、州都ジュノー、金鉱の町ホワイトホース、魅力的な小島シトカ、国境ケチカン、町並みの美しいビクトリア、アメリカ入国シアトル、コロンビア河を上りオレゴン州ポートランド、金門橋のサンフランシスコ、ドライブでヨセミテ国立公園、2000年の巨木レッドウッド国立公園、間欠泉イエローストーン国立公園、マリナ・デル・レイはロサンゼルス、飛行機でグランドキャニオンとラスベガス、アメリカ最後のサンディエゴ。

メキシコへ入り鯨の子育て地バハカリフォルニア、コルテスの海ラ・パス、アカプルコから飛行機で首都メキシコシティ、中米ニカラグア、爬虫類のコスタリカ、パナマ運河、紺碧のカリブ海の島々、ヘミングウェイのキーウエスト、雷のフロリダ、軍港ノーフォーク、自由の女神ニューヨーク、汽車の旅でボストン、カナダのハリファックス、赤毛のアンのプリンスエドワード島、そして日本では立川アメリカ村、新宿区四谷、湯河原の温泉、カーフェリーで北海道。

いつもいつも付き合ってくれて有難う。猫は家に居つくと言うけれどど、グリは私たちといるのが好きだった。グリはすぐに移動できるようにいつもハーネスを付けていて、リードをつけてお散歩するのが好きだった。

闘病生活・・・ヨットの食事

私たちは海もヨットも好きなので、毎日単調に海ばかり見ていても飽きないのですが、その中で食事はやはり最大のイベントです。

海が静かなときは、天ぷらも出来るし、ガスコンロはジンバル(船が傾いても常に水平を保つ)なので、動いていても深めのお鍋で煮物をしたり、圧力釜でご飯を炊きます。

そして船の旅の良いところは、本を沢山読めること。テレビもないし、食事の支度とワッチ(見張り)意外は読書三昧です。

誰が言ったか、ヨットの旅は闘病生活に似ている。運動不足にはなります。

なかなかグリが登場しません。船長のストーリーの間に私も時々入ります。グリも出したいですね。