異例、備蓄燃料の入手

次の燃料補給可能な港を司令官に問う

「入国審査ができる開港はダッチハーバーである。」

「コーストガードとしての見解は直行を望む。」と

司令官は、ジュノーの本部へ連絡し

備蓄の軽油をわけてくれることになった

85ガロン137ドル45セント

1リットル40セント、日本円で50円!!

副長から注意事項

「Kiska島は軍部が新兵器の実験に使っているので近づくな!」

「Amchitka島は核実験場であったので近づくな!」

キスカ島はアッツ島玉砕後、日本軍が奇跡的撤退に成功したところ、アムチトカ島は「江戸時代の漂流民、大黒屋光太夫」が4年間過ごした島と言われている。非常に興味があったので残念である

サッポロビールの礼として「Henry Weinhard’s」なるビール1ケースを土産に頂いた・・・こくのある地ビールの風味だ

出航準備、船内整頓 海図に予定コースをひく、ダッチハーバーまで776,1海里 6日半

「ダッチハーバーの入管には連絡済みである」

「本日、補給船入港で明日は全員荷揚げ作業、多忙につき出航手続きは省略する、天候は安定している、出発はご自由に」とVHF

ありえない出会い

こんなことがあるのだろうか。何か運命に支配されているとしてもおかしくない。

私たちがアッツ島に入った日、偶然にも日本人が1人本土から飛行機でやって来ていた。現地のコーストガードにしたら、打ち合わせて入って来たと思われても仕方がない。

アラスカの果ての無人島に近い小島に、同じ日に日本人が別々に来て会うということさえ、まるで本の筋書きのようだ。

その島に入るには、アメリカ政府に書類を申請し、受理されるには何年も掛かったという。彼はカメラマンで、彼の師匠の志を継ぎ、玉砕の島アッツ島の写真を撮りに来たところだった。

一般人の住む島ではないから、ホテルはもちろん、店1つない。だから、日本人の遺族たちもなかなか入れず、その場合は、乗ってきた船に泊まるしかない。彼は、テントと食料を持参するという条件で来ていた。

日本人が居るということで、お互いにびっくりだったが、外国、それも最果ての島で、母国人に会うというのはうれしいことで、さっそく彼を夕食に招待した。何しろ日本語で話せるのだ。

その日は、釣れたタラとお豆腐でお鍋にした。カロリーメイトしか持ってきていないという彼は大喜びだ。

ゲストブックに名前と住所を書いてもらい、神保町という地名から、ひょっとして一橋中学? 私は小学生の頃、引っ越して越境していたが、彼は未だに地元。共通の先生の話題、千代田区連合運動会など話題は盛り上がる。2年先輩だから、同じ時期に同じ体験もしていた。

不思議なことにこれ以降もひょんなことから一橋の同窓生には出会うことが多い。何しろ当時は1クラス50名位で1学年12クラスもあった。スパルタ教育で有名で女子は1クラス10名足らずだったが、一番楽しく、一番勉強した時代だった。そして素晴らしい先生が多かった。

旅に出て最初の島で日本人に会い、その後も行く先々で日本人に会うことになるが、どんな辺境にも日本人がいる。

日付変更線を越えたこと

私たちは、ビーチボールのようなビニールの地球儀を持っている。平面ではないので、地球の丸さ、太平洋の広さ、緯度の高さと距離の関係が一目瞭然でいい。

その地球儀に走った分だけ赤い線を入れる。1cmは大変な距離だ。

そして7月2日、ついに日付変更線を越えた。地球儀のその線の上にいることが嘘のようだ。

この日付変更線は地球の上で最も変な位置にある。無理やりロシア側に曲げている、そのことをアッツ島に着くまで気づかなかった。

とにかく記念すべき日なので、ワインで乾杯。

さて、時間は1日遅れる。それもアラスカ時間にしなければならなかった。無理やり日付け変更線を曲げて本土と同じ時間にしてある。私がランチにステーキは豪勢だと思っていたら、それはディナーだったのだ。

実際の太陽の位置より、ここでは本土との連絡などで時間を同じにしなければいけない。

それは奇妙な体験だ。

川で洗濯・・・青キツネをみる

昨日、14日ぶりに揺れない硬い地面を踏んだ

「上陸はしても良いが、海岸線の道路以外は踏み込むな!」

「未処理の地雷が無数にある!」と司令官

上陸、島の草原はルピナスの満開だ

溜まっていた洗濯物をもって川へ降りる

直ぐめげてしまう、川の水はあまりに冷たい、雪解け水である

ロランステーションで洗濯機を借りればよかった

 

海岸線で餌をあさる小型の動物を見る

写真上 沖にオンディーヌ 海岸の灰色の砂利の上に狐(小さい)

青キツネだ!

とても痩せて後ろ足を引きずっている

冬毛が夏毛にはえかわる時期なので

ボロキレをまとい、足を引きずり敗走する日本兵を幻視した心持だった

足の負傷は残置地雷か、トラップのせいか

今は狩のシーズンではないので、少しは安心か

散歩に切り替える

気温は低いが、花を摘む妻は満足そうだ

アッツの短い夏の始まりか

タラが大漁

昨夜仕掛けた針にタラがいっぱい


早速解体し、お昼に「フリッター」にしておいしく頂く

残りをぶつ切りにして蟹取り網に入れ半日

水揚げしようと引き上げる

写真下の様にピカピカの骨になっていた

再び蟹トラップをセットし海中に下ろし30分後

揚げて驚いた、小さな海老状のプランクトンが蛆虫のように取り付いている

この海で遭難死したら我々もきっと綺麗な骸骨になるのだろう

奇妙な諦観が私を包み込んだ

この海で戦死した、日米の兵士たちも静かに綺麗な骸骨となり眠っているのだろう

 

オケラネット(外洋ヨットの無線ネットワーク)で無寄港世界一周中の「キューリ(海連 今給黎教子)」と通話

「そろそろ、黒潮に乗れそう・・・暑くて参っちゃう・・・」

「こちらは気温8℃です・・・寒くて・・・」

かみ合わない会話を楽しむ

ご婦人を見学に

写真上 ポート先端左舷にサッポロビール1ケース

 

非番の隊員が我々を見にくる

カルキくさい消毒済みの水70リッターも搬入してくれる

島の生水は寄生虫に汚染されているとのこと

驚いたことに船はこのボート一隻だけ、大型船はここにない

この地方の荒天に船の安全を確保できる港がないそうだ

好天時、アラスカ本土からの飛行便とたまに来る船便が頼だ

住人は男性隊員21名とセントバーナードと黒犬のミックスが一匹だけという、名前は「COCO」、「COCO」は正式なコーストガードの隊員であり、認識票も発行されているという。

ロランステーション(隊舎)に案内され熱いシャワーで入浴

食堂で大きなステーキとホカホカのポテトのサワークリーム添えを頂く

今日は7月4日独立記念日で、特別ディナーだそう

久々の好天で日本人カメラマンとステーキが、C-130輸送機で運ばれてきたのだと

隊舎の中は清潔にピカピカに磨き上げられていた

隊員たちは一年間この辺境の勤務が終わると希望の任地が得られるそうで、やはり、南国のハワイがダントツ一位、フロリダは麻薬がらみで今ひとつ人気がないそうだ

帰路もボートで送ってもらう

お礼にサッポロビール1ケースをプレゼントする

住人はコーストガード21名

Casco Coveに投錨したオンディーヌ

雲が低く垂れ込め、気温も低いが、南以外の風から守られた良い泊地

小型のボートに3人が乗って来た

司令官、副長、そして日本人カメラマン・・・!?

「本官は C.W.O.Mike Joyce

Coommanding Office

U.S.Coast Guard Loran Station Attu.である。」

「この島へは、米本国からの上陸許可がなければ、入域、上陸は許されない」

「しかし、清水の補給、船の修理、乗員の休養であれば、私の権限で許可しよう、乗員名簿と要望書を提出しなさい。」

「機械のの修理が希望であれば、修理工場を使ってよろしい!」

 

「それにしても、ご婦人を見るのは何ヶ月ぶりかなー!」とにこやかにハグされる。

アッツ島玉砕のこと

写真上 日本軍の陣地あと

 

私たちがアッツ島についた50年まえ

1942年(昭和17年)5月日本軍がアッツ島を占領した

ミッドウエイ作戦の陽動上陸作戦だった

翌年5月29日、山崎保代陸軍大佐指揮のアッツ守備隊は玉砕した

太平洋戦争最初の玉砕であつた

日本軍の戦死者2638名、俘虜27名(29名という説あり)

米軍は空母を含む機動艦隊の支援のもと

一万一千の上陸部隊を投入し、戦死者550名、戦傷者1500名

戦傷者のかなりの数は凍傷で、この島の自然の過酷さをおもわせる

オンディーヌが投錨している海岸から米主力が反撃上陸した

日本軍の粗末な陣地、たこつぼが水溜りとなって残っている

米軍が残した朽ち果てたドラム缶の山が、物量の違いを見せ付けてい

飛行場脇に日本軍遺族が建立した慰霊碑が立っている

案内してくれたコーストガード司令官とともに黙祷した

米軍は、日本軍の勇猛果敢さに敬意を表し

山崎大佐の戦死地点「戦闘工兵の丘」にモニュメントを作った

写真上 米軍の残した物資残骸

1992年7月4日(アラスカ時間7月3日) アッツ島到着

午前4時12分白と黒のパンダ柄のイルカ100匹以上

「アッツ島はこちらですよ・・・」と先導するように現れる

気温5℃、小雨、視界はよし

VHF(船舶用近距離無線)16チャンネルでアッツ・コーストガードを呼ぶ

応答なし

針路を「殺人岬」に向ける、ロシア領時代アレウト人惨殺現場という

午前6時18分Temnac Bayの岩礁が霧の中から見えた

写真上、Murder Pt.(殺人岬)

残雪の山、荒天の後のせいか、流れ昆布が多くスクリューが心配

海鳥多し、ハンプバック鯨ゆっくりウネリながら泳ぐ

午前7時45分Navy Townへ変針

写真上 左にロランタワーと、右山すそにコーストガード司令部庁舎

桟橋は古い木製で接岸はできなそう

海岸線をトラックが走る、Massacre Bayへ向かう

VHF16チャンネルに応答あり

「21チャンネルに変波せよ!」とコーストガード

「本船は日本の帆船、オンディーヌである。水の補給と休養をもとめる。」

岸に数名の人影、車2台に分乗し人影が増える

「この海岸へ、一人だけ、武器一切を持参せず上陸せよ!」

写真上 崩れそうな桟橋とコーストガード司令部庁舎

沖合いに投錨、しっかり効かせる

ディンギィー(小型の足船)を降ろし岸へ向かう

上陸時、追い波にサーフィングして転覆

冷たい海水に、ブルッてしまう

バツの悪い上陸第一歩

1992年7月3日 アッツ島まであと一日

昨日午後6時、1867年締結のロシア、アメリカ海上国境通過

海上を流れるジャイアントケロップが多くなる

ヌメリのある黒い大蛇のようで、不気味な姿に初見時は驚く

見慣れた外洋性の鳥に、カモメやコアホウドリも交じり陸地の近さを感じる

妻は英語の辞書

私はパイロットブック熟読、詳細海図(#16432)を復習

午後9時ころには暗くなりだす

午後10時、最後のウェイポイント、通過し詳細海図へ入る

北緯52°16′26 東経171°26′44 あと61、87海里

夕食、豚ヒレ肉トマト煮、ナス味噌炒め、ポテトオーブン焼き

曇り、気温6℃、SE8メートルの風、艇速6.4ノット