ベーリング海の楽園・・・1

ダッチハーバーでの課題は山ほどある

ここからコーディアーク島までの詳細海図が不足していた

船具屋では半分ほどしか手にはいらなかった。

写真上  キスカ島沖の嵐で吹き飛んだアンカーウエルハッチ

マスト灯の接触不良

錨巻上げ器(ウインドラス)のスイッチ防水

ウインドベーン(自動操舵)調整

スロットルレバーのピン調整

スライドハッチ防水

プロパンガスの補給とアメリカ仕様への変更

コンパスライト配線交換

アクリル窓のひび割れ補強

ほかに細かな修理がリストアップされている

ヨットの航海日誌は、船の修繕の記録でもある

少し価格は高いがほとんどの修理部品は手に入る

ここはあまりに孤立し、自立しなければ生き残れない環境なのだ

ここに住むすべての人たちの合言葉は「インディペンデント」だ

ダッチハーバー到着 1992年7月13日

キスカ島沖の嵐のあとは霧や雨、曇りの天候だった

海は大して荒れなかった

入港前にパイロットボートを通じ港長にVHF

港口の給油桟橋で通関手続き

検疫、入管は担当者不在

「週末の休みが長引いているんじゃない・・・?」と税関職員

今日は月曜日だ

インナーハーバーへの移動許可はもらう

写真上 手前の岩礁に白頭鷲、ロシア正教会との間の水路を右奥へ

小型の漁船が溜まっている

赤い鉄の船体、ノルウエイのヨット「KIWI」に横抱き

「明日、15時ホテルにて入管職員と会うように」と無線連絡

「もう、上陸してもいいよ・・・」いたって鷹揚

写真上 インナーハーバーとても安全な船溜まりだ

西部劇の町の様

プレハブの建物、コンテナーも店舗や事務所にしている

泥道を汚れたトラックや4駆が走り

汚い作業着の労働者たち

マリファナの匂いまでしてくる

パイオニアマーケットなるスーパーへ

大きなステーキ、野菜、果物、菓子など買い込む

85ドル、「東京なみの物価ね・・・」と妻

写真上 ウナラスカの町、繁華街?は反対側

久々に買い物をする喜びを感じる

夕食は大きなテンダーロインステーキ、赤ワイン

生野菜たっぷりサラダ、新鮮なオレンジ・・・食べすぎ!!!

安全な港に舫を取り、緊張から開放され少しハイになっている私

泥だらけになって良く働くアメリカ人の姿が印象的な一日だった

どうして、ヨットで

船長は昔、俗に言う山男だった。ロッククライマーだったのだが、30歳過ぎて突然、海に変わった。しかし、面白いことにその頃の彼の山仲間は今みんな海の男になった(1部山もいる)。

彼らは、山の事故で友だちを沢山亡くし、それぞれ家庭を持ち、より安全な方へとなったことは確かだ。山から海へ転向する人は意外に多いのだ。どちらも自然相手ということでは同じで、自然の中に身を置き適度な危険が心地よいのだ。

山から海に変わるには、それなりの伏線があり、それは船長が子どもの頃、すでにヨットに興味を持ち、「舵」という本を購読していたり、結婚してすぐ、初めての海外旅行でアラスカに行き、そこでヨットを見たこと、アラン・ドロン主演の「冒険者たち」を見てロマンを持ったということもある。

そんなわけで、いつからか彼は私の顔を見ると「ヨット買って」というようになった。朝から晩まで毎日何百回聞いただろう。

4畳半、台所、トイレ共同、風呂なしの古いアパートから始まった結婚生活で、ヨットなど夢のまた夢だった。

しかし、ある日山仲間の2人が、ベニヤのキットでヨットを組み立てているという話を聞いた。「そうか、そこから始めればいいのだ」と私は思った。「欲しい、欲しい」「夢だ」と言っていても始まらない。出来ることから始めるのだ。

私たちは、中古の14フィートのディンギー(小型ヨット)を月々1万円のローンで買い、一年間それに乗って操船の基本を練習した。

毎週末、立川から逗子へ車に船を乗せ通った。土曜の夜に車に泊まり、日曜の朝、デニーズにいって顔を洗いご飯を食べ、海に出た。

一年経ち、ローンを払い終わり、その船を頭金にして今度はやはり中古だが21フィートのキャビンのあるクルーザーを購入した。21フィートとはいえ、ディンギーとは雲泥の差である。木更津のハーバーに置き、初めて第一海堡を越えるときは、ドキドキしその向こうには魔物がいるのではないかと思った。

そうやって、ローンを払い終わっては、また一つ大きくし、最初に夢見てから15年近くかかり、世界一周できるヨットを手に入れた。その船を手に入れるまで、船長は相変わらず言い続けた。「ヨット買って」。彼は友だちのいる小笠原も外国もヨットでなければ絶対行かないといい続けていた。

結果的にかなりの金額になり、それなら私は豪華客船の方が良かったが、彼にとっては、自分の船で、自分のスタイルで行くことに意義があったのだ。それは家一軒動かして行くような究極のわがままで、お米を持ち、味噌、醤油を持ち、沢山の本と沢山の自由を積んだ旅だからだ。

グリの死から始まる

先日、愛猫を亡くしたSさんから手紙を頂き、読んで二人で泣いた。その手紙は、許可を得て海洋自然葬の風「風の日誌」の方に掲載した。

グリは本当に健康な猫だったが、運動不足が祟り最大で10㎏にまでなった。私たちは太っているのがまた可愛いかったし、個性的でますます熊のようで好きだった。しかし、高齢になり、ついに糖尿病になってしまった。

グランドバンクス42(前オンディーヌ)のピアノの上で(写真上)

 

猫の糖尿病はやっかいだと聞いて、私たちは真っ青になった。インスリンの量の管理が大変なのだ。一時は駄目かと思う処まで行き、安楽死まで考えたが、通っていた獣医さんが良く、最初は1日1回のインスリンの注射、後半は朝、晩2回になったが、5年ぐらいは普通に生きられた。

体重も7㎏位まで減り、3ヶ月か4ヶ月に1回の通院で食欲もあり、時々ベランダに出たり元気だった。

でも、最後の一年には、年齢が15歳ということもあり、彼がいなくなったら、私たちはどうなってしまうだろうと心配だった。正にかすがいだったし、精神的な支えでもあったから。

生きているうちに、グリを中心に旅の本を書きたいと思いながら、叶わなかった。グリの死から一年経って、やっととりあえずブログという形で始め、書くことによって救われている部分が大きい。

アッツ虜囚記

此の年の12月、ヴァンクーバーに船を置き一時帰国した。古本屋でヨットへ持ち帰る本を物色中この本を見つける。捕虜となった一兵士の聞き取りをまとめた本である。

アッツ守備隊は米軍上陸時、すでに飢餓状態にあった。米軍の海上封鎖と悪天候で補給は潜水艦頼みで充分でなかった。

米軍の記録にもあたり彼我の状況も公平に記載している。日本軍の予想外の戦術と抵抗に取り乱す米兵、米兵戦死者から携行食糧を奪ったり、米軍の兵站拠点になだれ込み、その食料を漁り、米兵と戦う日本兵。

それぞれのプライドと、家族愛と、愛国心をかけ、人間くさい残酷な肉弾戦が、わずか半世紀前にこの島で行われた地獄が書かれている。

捕虜となり、尋問の過程で日本人通訳とのやり取りは、このあとカリフォルニアのモントレーでお会いした、日系二世米兵だったA氏の当時(南太平洋で日本兵の投降と尋問にあたっていた)の苦悩のお話と重なり、我々はまだこの歴史の中の登場人物と同じ時間を共有していることを深く肝にめいじた。

カナダでも「収容所から此の町へ帰ったのは私だけだった。」と語る日系老紳士とお会いした。謙虚さと優しさと、明治生まれの気骨ある人柄が、その町で日系人、カナダ人、カナダ・インディアンからも尊敬されていた。日本ではすでに此の様な方たちとは、なかなか会うこともない。

ベーリング海の洗礼・・・7月8日から9日の嵐

Nizkils島にビルのようなレーダーあり・・・大自然の中に違和感

気温6℃の船内でキャベツとソーセジの濃厚なスープ,皿からの蒸気

南700海里に低気圧あり、針路が心配

00時海上漆黒の闇

2時方向6,5海里に島影、レーダーに映る、激はげしいピッチング

Buldir島沖、ENEの風20メートル 艇速5,7ノット

深夜の縮帆作業3ポイント、ストームジブ(荒天用前帆)

これ以上吹いたら、メインセールをおろそう

あまりに島が近く、風向も悪くヒーブーツー(漂流)はできない

デッキを波が洗い、スライドハッチ(入り口)から若干の浸水

異音がして錨鎖のハッチが吹き飛ぶ

収納していたロープを室内へ取り込む・・・びしょ濡れ

妻はギブアップ・・・?ベットの中で手足を突っ張っている

15時Kiska島正横、こんなに荒れても視界はない

大揺れのオンディーヌを楽しむようにイルカ伴走

18時Rat島は後方へ視界悪く見えなかった

風少し落ちE16メートル・・・依然波悪し

潮のせいか島に寄せられているよう・・・気分めげる

01時、疲れ果て、少し広い海域で風下に島なくヒーブーツーへ

04時急に風落っ、霧、デッキ上の混乱整理、ゴムボート流失していた

波なく、うねりのみ、海鳥多し

霧の中Sugarlaf Peakが見え直ぐ消えた(写真下)

妻、何事もなかったようにアッツ島の花の押し花を造っている

12時西経に入る

ワインとキャビアで乾杯・・・塩辛く酷い味のキャビア、半熟卵を混ぜごまかす

18時10分平らな海面をすべるようにランニング(追い風帆走)

今回の荒天は突然発生する局地的低気圧の中心だった様

暖かいシャワーを浴びる・・・生き返る

20年前に読んだ本、東良三「アラスカ 最後のフロンティア」よみだす。ロシア人のアリュート人(現地人)への扱い、いたく、気分悪るし

夕食、ホタテのベーコン巻き、コールスロー、たけのこご飯

嵐が過ぎればこんなものさ!

1992年7月7日 ベーリング海へ

午前7時19分、ロランステーションまえ

国際信号旗「UWー1」掲揚(協力を感謝するのサイン)

VHF21チャンネルで司令官へ礼を述べる

「Good Luck TO You!!」と司令官

早朝に釣ったタラを解体し冷蔵庫へ

冷たい重い濃霧が山から下り海面を覆う

写真上 霧の中へ 右手の海図 足元にフォグフォーン

 

北東の風11メートル、艇速6,5ノット

午前9時、ベーリング海へ入る・・・未知の海域だ

多数の海鳥、セグロカモメ、ハシボソミズナギドリ、ウトウ、ひときはユーモラスな下手くそな飛び方のエトピリカ(パフィン)

パフィンは海中では潜水泳法の名手なそな

アッツ島を振り返る

写真上 一瞬、稜線が見えたが直ぐ霧の中へ

 

4日間の滞在中、霧と雲でその全容を一度も見せてくれなかった

英霊に黙祷

数十のイルカ伴走

Sherys島に巨大な黒い建造物、ロシアを睨む戦略核監視レーダーだ

写真上  ICBM監視レーダーといっていた

遠く近く鯨の潮吹

ワッチオフ、気温4℃、寒い、寝袋へ入っても寒い

いよいよ、ベーリング海だ

異例、備蓄燃料の入手

次の燃料補給可能な港を司令官に問う

「入国審査ができる開港はダッチハーバーである。」

「コーストガードとしての見解は直行を望む。」と

司令官は、ジュノーの本部へ連絡し

備蓄の軽油をわけてくれることになった

85ガロン137ドル45セント

1リットル40セント、日本円で50円!!

副長から注意事項

「Kiska島は軍部が新兵器の実験に使っているので近づくな!」

「Amchitka島は核実験場であったので近づくな!」

キスカ島はアッツ島玉砕後、日本軍が奇跡的撤退に成功したところ、アムチトカ島は「江戸時代の漂流民、大黒屋光太夫」が4年間過ごした島と言われている。非常に興味があったので残念である

サッポロビールの礼として「Henry Weinhard’s」なるビール1ケースを土産に頂いた・・・こくのある地ビールの風味だ

出航準備、船内整頓 海図に予定コースをひく、ダッチハーバーまで776,1海里 6日半

「ダッチハーバーの入管には連絡済みである」

「本日、補給船入港で明日は全員荷揚げ作業、多忙につき出航手続きは省略する、天候は安定している、出発はご自由に」とVHF

ありえない出会い

こんなことがあるのだろうか。何か運命に支配されているとしてもおかしくない。

私たちがアッツ島に入った日、偶然にも日本人が1人本土から飛行機でやって来ていた。現地のコーストガードにしたら、打ち合わせて入って来たと思われても仕方がない。

アラスカの果ての無人島に近い小島に、同じ日に日本人が別々に来て会うということさえ、まるで本の筋書きのようだ。

その島に入るには、アメリカ政府に書類を申請し、受理されるには何年も掛かったという。彼はカメラマンで、彼の師匠の志を継ぎ、玉砕の島アッツ島の写真を撮りに来たところだった。

一般人の住む島ではないから、ホテルはもちろん、店1つない。だから、日本人の遺族たちもなかなか入れず、その場合は、乗ってきた船に泊まるしかない。彼は、テントと食料を持参するという条件で来ていた。

日本人が居るということで、お互いにびっくりだったが、外国、それも最果ての島で、母国人に会うというのはうれしいことで、さっそく彼を夕食に招待した。何しろ日本語で話せるのだ。

その日は、釣れたタラとお豆腐でお鍋にした。カロリーメイトしか持ってきていないという彼は大喜びだ。

ゲストブックに名前と住所を書いてもらい、神保町という地名から、ひょっとして一橋中学? 私は小学生の頃、引っ越して越境していたが、彼は未だに地元。共通の先生の話題、千代田区連合運動会など話題は盛り上がる。2年先輩だから、同じ時期に同じ体験もしていた。

不思議なことにこれ以降もひょんなことから一橋の同窓生には出会うことが多い。何しろ当時は1クラス50名位で1学年12クラスもあった。スパルタ教育で有名で女子は1クラス10名足らずだったが、一番楽しく、一番勉強した時代だった。そして素晴らしい先生が多かった。

旅に出て最初の島で日本人に会い、その後も行く先々で日本人に会うことになるが、どんな辺境にも日本人がいる。

日付変更線を越えたこと

私たちは、ビーチボールのようなビニールの地球儀を持っている。平面ではないので、地球の丸さ、太平洋の広さ、緯度の高さと距離の関係が一目瞭然でいい。

その地球儀に走った分だけ赤い線を入れる。1cmは大変な距離だ。

そして7月2日、ついに日付変更線を越えた。地球儀のその線の上にいることが嘘のようだ。

この日付変更線は地球の上で最も変な位置にある。無理やりロシア側に曲げている、そのことをアッツ島に着くまで気づかなかった。

とにかく記念すべき日なので、ワインで乾杯。

さて、時間は1日遅れる。それもアラスカ時間にしなければならなかった。無理やり日付け変更線を曲げて本土と同じ時間にしてある。私がランチにステーキは豪勢だと思っていたら、それはディナーだったのだ。

実際の太陽の位置より、ここでは本土との連絡などで時間を同じにしなければいけない。

それは奇妙な体験だ。